肥後と薩摩との国境にそびえる鬼嶽と失筈山は仲が悪く、何かにつけて啀み合っていた。
「鬼嶽ば見てんの、頭は鞘坊主のごつして見たむなか。あっじゃ嫁ごん来てもなかろうたい」失筈はいつもそげんこつば仲間にしゃべっていた。
しょっちゅうこんな悪口を言われていた鬼嶽は、とうとう我慢しきれずに失筈の所まで押しかけて行き、口論の末に足で失筈の胸ば蹴っ飛ばした。それからというものは、回りの山々も鬼嶽派と矢筈派に分かれて争いはひどくなる一方であった。この様子を心配した仲間の山のなかから、「大喧嘩にならんうちに長老にとりなして貰おい」ということになり、長老の村東の山( 現、無線山) のところに行き仲裁ば頼んだら、「あば背比べばさせっみよい」ということになった。
村東の山は仲間の山に「鬼嶽から矢筈まで樋ばかけてみれば、どっちが高かかわかっとたい」と言って、樋を作って渡すように言い付けた。
樋が出来上った日、俄に雨が降った。そして雨水は鬼嶽から失筈の方へと流れ、これで鬼嶽の背が高いことがはっきりとわかった。
「やっぱ、うちの大将が高かったがね」鬼嶽の子分たちは鼻を高くした。
「おかしかねえ」矢筈の子分たちは腑に落ちないという顔で親分の姿をしげしげと眺めた。よく見ると失筈の体はうしろに傾いている。
「どげんしたっじゃろか。うしろさん傾いとらっぞ」子分たちがささやき合った。
「おるが、こん前、腹かいて力いっぱい蹴飛ばしてくれたったい」鬼嶽が小声でつぶやいた。
「出来たこた仕方んなかたい。高さは鬼嶽が上じゃばってん、男前は矢筈が上たい。それに矢筈はよか嫁ごば持っとるじゃなかか。こるからみんな仲ゆうして、湯の鶴の人間どむから好かるっごつならばんぞ」長老の村束の山が言った。
みんなは太か声で「ハーイ、こるから仲ゆうします」と答えた。そるからは、東の鬼嶽さんと西の矢筈さんは向かい合って、仲ゆう暮らしとんなるち話たい。
水俣市史「民族・人物編」より