古賀村から丸島の丸山の麓に至る中道のほとりは一面の水田が広がり、ところどころに小笹や茅が生い繁る薮があり、月の無い夜は暗く人もあまり通らない道だった。民家の灯は遠くかすかにまたたき、月の出た夜は塩神様の大きい松の木が黒々と彼方に見える。この付近一帯が“ 茂田のモゼ“ の縄張りであった。
夜遅く一人でこの中道を通ると提灯の火を消されてしまうとの話から、昼間は通る人が多かったが、夜になると滅多に通る人はいなかった。
モゼが現われるのは月の出ない漆黒の闇夜で、なぜか月夜には出なかった。
モゼの演技は、まず道の中ほどあたりで、歩いている人の前方にピンポン玉のような火の玉がふわりと現われ、一刻空中に漂っているかと思うと、次第にボール大になりパァーッと掻き消えてしまう。暫くすると、今度は一点に灯が点ったかと思うと、その灯が人の姿を形どったように大きくなり、かすかに明滅しながら近づいてくる。そして近くまで来たかと思うと突然に消えてしまう。
その灯は怖がる人ほどよく見えたといい、その灯に会った人は魂を失うほど怖かったそうだが、その美しさは夢幻の光を見ているように異様に美しかったとも言われている。
モゼはもともと合戦の物真似を得意とし、現在の第二中学校裏にある塩釜神社の側に陣取った一軍と、水俣青果市場辺りに布陣した一軍が、栄町から古賀一帯の田んぼを舞台に、両軍の兵隊が展開してパンパン銃声を鳴らしながら、中道辺りで攻めたり退いたりの見事な攻防戦を繰り広げて見せたそうである。これは激戦であった水俣での西南戦争を真似たものだったのだろうという。また、あるときは、田んぼの水を争って鎌で渡り合う闘争絵巻を展開して見せたこともあったといい、ある人は美女になって道案内をしてくれたと言う。
“茂田“の地名は記録にないが、中道一帯を指して呼んでいた。”モゼ“は年老いた狸であったらしい。
多々良のタゼンは多々良山の主で、多々良山からチッソの裏山かけて縄張りをもっていたようである。
このタゼンは殿様行列が得意であった。多々良山から繰り出す行列は、先導の髭奴が提灯をチラつかせて下り始めると、それに続いて槍持奴、徒歩侍、その後に殿様の駕籠、その周りには近習と馬回り、後には刀番、六尺(道具持ち)が続くなど、おそらくは薩摩藩島津公の参勤交代を真似たのであろうが、非常に念の入ったもので、当時塩田であった今のチッソ水俣工場の辺りをガヤガヤしながら通っていく様は、見飽きしなかったそうである。
そして、モゼとタゼンの両雄は、しとしとと雨が降る夜などは、互いに持てる秘術をつくして、一方は合戦を、片方は殿様行列をと芸を争って見せたという。
水俣市史「民族・人物編」より