江戸時代末期のころの話である。久木野の暖谷集落はそのころ、久木野本村( 鶴村) の地主が自分の名予に、「暖谷というところは暖かいから米作りに適地である、お前たちはそこに移住して水田開拓をするように」と勧めて、この地に移り水田を開拓したのが始まりだといわれている。
ある日のこと、この新開地に一人の坊さんがぶらりと訪れた。多分仏道修業のため行乞をしながらこの地に入りこんできたのであろう。坊さんは純朴な村人たちの厚意で、掘っ建て小屋に住んでしばらく滞在し、毎日あちらこちらの村を托鉢して回り、その日暮らしをしながら仏道修業に励んでいた。
ところが、しばらく坊さんの姿が見えないので、村人が小屋を訪ねてみると、坊さんはすでに亡くなっていた。村人たちには身寄りもわからないので坊さんの骸を仕方なく、田んぼの一角に埋めてやった。
何年か経て村人たちが坊さんのことはすっかり忘れ去っていたころ、村の長老で鶴田源吾という爺さんが、ある日原因不明の病に患った。やれ医者だ薬だと一生懸命養生したけれども、病気は一向に治らず、どうしたものかと悩んでいると、今度は近くの村人が気が狂うようになったり、あちこちに病人が出たり次々と村中に不幸が重なった。
そのころ、鶴村にオタ婆さんという「呪い師」が住んでおり、どんなことでもよく当たるといって大変な評判だったので、源吾爺さんは溺れるものは藁をもつかむの例えで、オタ婆さんに占いをたてたところ「それは坊さんの障りじゃ。埋めたところに地蔵さんを建てて供養すれば、障りは立ち所に消えるぞよ…」と呪いの卦が出た。源吾爺さんは早速小さな石彫りの地蔵さんを石工に頼んで現地に建て、懇ろに供養した。
呪いが効いたのかその後源吾爺さんの病気は治り、また村の中から災難も取り除かれ、平和な日々が甦ったと語りつがれている。
現地の地蔵さんは、もと在ったところから約二メートル離れた、一段高い田の畦の少し広い空地のところに移転してあるが、この地蔵さんの台座部分には次のように刻まれており、今でも子孫の人たちが供養をつづけている。
台座に刻まれた文字「昭和十五年旧七月七日 、コレカラハサワリナシ、鶴田源吾建立」
水俣市史「民族・人物編」より