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みなまたの伝説「元山丹波庄衛門物語」

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 昔、ここ大川村は、肥藤国境に接する土地柄だけに、住人は常に周囲からの脅威に晒され、いつからともなく武勇の地として名を残した。
 大川村から寺床村へ行く途中の西野に、元山丹波( 一名を庄左衛門) という剣道の達人がいた。庄左衛門は剣術のほかに早歩きの名人ともいわれ、その足の早さは、菅笠を胸に置いて手を添えずに歩いても落ちなかったといい、また、夕刻に大川を発ち八代まで辻斬りに出かけ、その夜のうちに家に帰りついたというのだから、恐ろしい足の早さであった。
 気の向くままに振る舞う荒々しい性格の持ち主であったらしく、ある日、庄左衛門の門口に案内を請う一人の山伏があった。幾たびか庄左衛門に面接を申し入れ、また家に居た母親もこれを取りなしたが、彼は相手にしないばかりか口汚く罵った。山伏も遂に諦めたか、ひとしきり法螺貝を吹き鳴らして立ち去った。それを見ていた母親は「いま立ち去った山伏が吹いた法螺貝は逆さ貝であった。逆さ貝を吹かれると一家一村に災難がふりかかると昔から言われている……」といって気をもみ、わが子の仕打ちを戒しめた。それを聞いて彼は無言のまま家を飛び出した。先の山伏のあとを急いで追いかけ、約五〇〇メートルぐらい行ったところで追いつくなり、唯一刀のもとに切ってしまった。
 山伏の祟りを恐れた村人たちは、その遺体を懇に葬り、そこに楠を植えたが、ここを「ヤンボシ塚」と言うようになった。そして、昔からここに来ると災難がふりかかると恐れられていた。
 しかし、今から二十数年前道路や河川工事などのため整理されたので、今では昔を偲ぶ何物も残っていない。また、元山丹波庄左衛門には次のような伝説もある。
 ある年のこと、圧左衛門は芦北、八代を経て球磨地方に遊びに出かけての帰り道、一勝地の山道にさしかかったとき、前方に山こに弁当をぶら下げ、のんびり歩いていく一人の百姓風の男があった。これを見た庄左衛門は、いつものいたずら気がむらむらと頭をもたげ、ついでに弁当も取って食べてやろうと足を早めた。
 無言で近づくやいなや白刃一閃、山この中ほどから見事に弁当もろとも切り落としてしまった。鋭い気合いに腰を抜かすかと思われた百姓風の男は、目にも止らぬ身軽さで二の太刀を避けると同時に、手元に残った半分の山こは唸りを生じて庄左衛門の頭上に振り下ろされた。辛くも身をかわした庄左衛門は、切りこむどころかただ防戦に必死で、あわや危なくなったとき、ニッコリ笑った男は何事もなかったような静かさで、無言のまま立ち去ってしまった。呆然と見送った庄左衛門は、よほど恐ろしかったとみえて、帰宅の後「もう二度と一勝地には行かぬ」とよく人に話していたという。
 西野字の小別のそばに苔生した墓石があるが、これが元山丹波庄左衛門の墓と伝えられている。
(注)山こ=山鉾、担い棒

水俣市史「民族・人物編」より


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