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みなまたの伝説「吉井紀井守物語」

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 久木野郷は、肥後と薩摩の国境になっているだけに、乱世の戦国時代には重要な地点としてその役割は重く、特に大川村は薩摩の島津、球磨の相良との境に位置しており、その攻防には十分の備えが要求されたため、多くの優れた武芸者が出ている。一説に、人吉の剣豪丸目蔵人佐が同地に一時足を止め、剣の指南をしたと伝えられているが、資料として残っている古文書には、文化三年(一八○六)に蔵人佐の流派を汲む者から「新影侍捨流」の指南を受けたという、白坂満則氏の先祖、白坂熊之充家に巻物が現存している。因みに丸目蔵人佐は天文九年(一五四○)に生まれ、三十歳のとき、大口城の合戦(永禄十二年(一五六九))で敵の計略に乗って完敗、その責めで藩主相良義陽から出仕差し止めの処分を受け、約二十数年を浪々の身で過ごし、その間、人吉城の子弟の出張教授や時には他郷へ待捨流の普及指南にも出かけたとあり、寛永六年( 一六二九) に没したとある。
 さて、吉井紀井守も大川村の住人で、馬術の名人として名を残した一人である。同地区には馬場という地名が残っているが、紀井守の馬術は肥後国内に並ぶ者がないといわれたほどの名人芸で、百聞(約一八〇メートル) の馬場に百本の針を落としておいて、疾駆する馬上からすべて拾ったというほど、神技にひとしい技の持ち主で常日ごろから藩主に忠節を尽くすため武術の道に励んでいたという。
 ある年の正月、肥後藩内の武芸者が熊本に集まり、藩主細川公の面前で、かねて自慢の腕前を披瀝し、その技を競った。中でも特に吉井紀井守の馬術は一際目立つ見事さで、並みいる人びとに手に汗を握らせ感嘆の息をのませた。藩主は、人間業とは思えぬ余りにも優れた馬術に驚くと同時に「これはまさしくバテレンの妖術使いに違いない。この者を生かしておけば将来如何なる禍いを招くやも計り知れぬ…」と紀井守は逮捕され、直ちに処刑を受けることになった。
 ちょうどその場に居合わせた、以前薩州から真宗禁制の難を逃れて久木野寺床村の山中に庵を結び、念仏布教に努めた元大野村(現芦北町大野) 光勝寺の開祖永龍師が、当時八代郡早尾城の城代をつとめていた時で、藩主の間近かに同座して一部始終を見ていたが、思いもかけぬ成りゆきに驚くと同時に、いたく紀井守を憐れみ、藩主に向かって「一芸の奥技に達したる者は、常人にはみられぬ神業を現すもので、断じてバテレンの魔術にあらず……」と、懇々と説得し強くこれを諌めた。藩主もようやく自分の非を悟り、これを許したので、吉井紀丼守はまさに九死に一生を得ることができた。
 この話を伝え聞いた寺床村を始め大川村、あるいは近傍の村人たちは、永龍師を命の恩人と崇め、のちに大野の光勝寺の門徒としてその恩義に報いたという。

 

水俣市史「民族・人物編」より


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