いつのころか定かではないが、久木野郷には古里有木の南側山麓に一寺があったと語りつがれている。( 越小場日当野から有木に通ずる市道のすぐ左下に、今も高寺という小字名が残っている。)
この寺が現存したころ、久木野郷には西に久木野城、東に中尾城が相対時して、常に反目の刃を研ぎ、隙あらばわが手中に……と虎視耽耽、互いにその機をうかがっていた。
策士であった久木野城主は、この高寺がちょうど中尾城の南側約五〇〇メートルの地点にあることに目をつけ、ひそかに甘言をもって院主と気脈を通じ、ある日、中尾城主以下一族郎党を寺に招待し、およそ山寺には似つかぬ山海の珍味をもって歓待させた。一同は時を忘れて馳走を受け、酒に酔いしれ、なお酒宴は続けられた。
久木野城ではこの機をのがさず、ひそかに城兵を中尾城に忍びこませ、刀の目釘を抜き、弓の弦を切るやら、武器の使用を不能にしてしまった。
やがて中尾城主以下城兵一同がほろ酔い気分で風に吹かれながら帰城したところを、久木野城兵がすかさず襲撃、一方的に中尾城を滅ぼした。また、猜疑心の強い久木野城主は、気脈を通じて加担し勝利に導いた高寺をやがて滅亡させてしまった。それ以来、久木野郷には寺院の存在を禁止してしまったと伝えられている。
ちなみに、中尾城が落城したとき、城主が詠んだと伝えられる謎解きの歌が残されているが、いずれも城郭の一端に財宝を埋めたことを暗にほのめかしたものと思われる。
“朝日蔭夕日輝く木のもとに、うるし千倍朱千倍○○”(戸北郡誌)
”朝日蔭夕日輝くしのめ竹、朱甕三本金甕三本” ( 古老談)
(注)中尾城は亀の城ともいった。
水俣市史「民族・人物編」より