祈りの言葉(患者・遺族代表)田畑 俊夫さん
水俣市長「式辞」
水俣病で亡くなられたすべての御霊が安らかならんことをお祈りし、謹んで哀悼のまことを捧げます。
本日、水俣病犠牲者慰霊式を挙行するにあたり、御遺族をはじ
め、水俣病患者の皆様、被害者団体の皆様、伊藤環境大臣、木村熊本県知事、国会議員並びに県議会議員の皆様、近隣自治体の皆様、また多くの市民の方々の御臨席を賜り、祈りを捧げていただきますことに、心から厚く御礼を申し上げます。
本年は、水俣病の公式確認から、68年目の年にあたります。
水俣病により被害にあわれた方々と御遺族の苦しみ、悲しみはこれ程の長いときを経ても変わることはありません。
これから先も、多くの方々とともに、その思いにどう寄り添っていくか。その取組みとして、慰霊式実行委員会の委員の方から奉納プレートに公募したイラストを掲載してはどうかという御提案がありました。実行委員会での話し合いを経て、美しい水俣の海の象徴である「うたせ舟」、そして「祈り」をテーマに、次の世代を担う子供たちや一般の方からイラストを募集し、来年度の水俣病犠牲者慰霊式から奉納できるよう準備を進めることとしております。この募集を通して、より多くの方々とともに、水俣の過去、そして未来へ思いを馳せる機会となることを切に望みます。
本市は、水俣病を経験したまちとして、市民の皆様をはじめ、議会、行政が一体となって、国や県の御支援をいただきながら、環境に配慮した様々な取組みを実施してきました。国の「環境モデル都市」や環境モデル都市の理念を継承し、発展させた「SDGs未来都市」に選定されるなど、その姿勢が高く評価されるようになりました。
しかしながら、全国で人口減少が進む中、本市もまた急激な人口減少、高齢化に直面しております。水俣病により被害にあわれた方々と御遺族の苦しみ、悲しみに寄り添い、その教訓を発信し続けるためにも、持続可能な水俣市を作り上げることが私たちの大きな使命です。そのためにも「みんなが幸せを感じ 笑顔あふれる元気なまち 水俣」の実現に向けさまざまな施策を力強く推進してまいります。
最後に、改めて、水俣病で犠牲になられたすべての生命に心から祈りを捧げ、式辞といたします。
まずは、本年1月1日の石川県能登地方を震源とする能登半島地震により、お亡くなりになられた方々に、謹んでお悔やみ申し上げますとともに、被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。
また、1月2日の海上保安庁の航空機と日本航空の航空機が衝突した事故により、亡くなられた方々に、心から哀悼の意を表します。
今なお復興途上である被災者の救済と被災地の復興支援のために尽力されている方々に深く敬意を表します。
私は、水俣市月浦出月という地域で生まれました。
眼下には水俣湾が広がり、恋路島が浮かび、その向こうには天草諸島が見渡せます。後ろには冷水水源や矢筈岳がそびえる風光明媚な地域です。
毎年お盆の8月には、出月自治会主催で住民手作りの「盆踊り大会」を開催しています。
昨年は地区住民の有志が資金を出し合い、出月の中心に存在していた古井戸に手押しポンプを取り付け、屋根をかぶせ、地区の防災対策のため、独自に井戸を整備しました。
そういう創造的な地域です。
私の父は出月で生まれましたが、戦前、南満州鉄道で働くなかで母と結婚し、戦後水俣へ引き揚げました。引き揚げてからは、父は会社員、母は農業をして暮らしました。
近所には沢山の漁師がいたため、日常的に魚を買い、食べました。また海では牡蠣や、「びな」という巻貝を拾って食べました。とにかく食糧難の時代ですから、何でも食べました。
私が物心ついた頃、海に牡蠣や「びな」拾いに行ったら、死んでドロドロになって、強烈なにおいがしていたことがありました。
海辺でくるくる回って海に飛び込んで死んでいく猫の姿を何度も目にしました。
その頃、近所では多くの水俣病患者が発生しました。
最初に見た水俣病患者は、第一号患者の少女でした。
少女は手足が不自由でしゃべることができず、いつ行っても、布団に寝かされていました。
手や足が曲がり、痩せこけ、よだれをたらし、しゃべることができなくなった大人たちも見ました。子供心に「かわいそうだ」と思っていました。
公式確認よりも前のことで、その人たちは「奇病」と呼ばれていました。私が、その人たちが「水俣病」と知ったのは、ずっと後のことでした。
私の母も、若い頃から「頭が割れるように痛い」といつも言っていました。
めまいがひどく、ふらつき、手足のしびれや、むくみ、からすまがりに苦しんでいました。
薬を飲んでも、治療をしても楽にはならず、その苦しみは生涯にわたって続きました。
そして2000年の12月、肝硬変で亡くなりました。享年79歳でした。
私が大学へ進学する前年、水俣病が公害認定をされ、翌年に裁判が始まりました。
原告には、同じ出月地区の方たちも多くいました。
また、私が生まれた家の目の前に住んでおられた川本輝夫さんはチッソ東京本社へ行き、直接交渉を行いました。
1973年、患者が裁判で勝訴し、チッソとの補償協定が締結されました。その年、私は就職活動の真っただ中でした。翌年就職し、忙しく働く中では、水俣病を思い出す暇はありませんでした。
2004年、退職を機に水俣に帰郷し、同年に簡易郵便局を開局しました。
その頃に声をかけてくれたのが、水俣高校の同級生でし
た。「30年も水俣をほっといて。お前何しに帰ってきたんや。」というのが彼の第一声でした。しかし、私の頼み事を引き受けてくれたり、「寄ろ会」や「水俣病センター相思社」とのつながりを持たせてくれたりしました。
おかげで、色んな人たちと仲良くなることができました。30年のブランクも、少しは薄まった気がします。
「寄ろ会」では、菜の花を植えて、種を収穫して菜種油を作り、その油を学校給食に使っていただくように寄付をしました。
また、水銀汚染の犠牲になった全ての生命を追悼し、地域再生への願いを火に託し、水俣の過去と未来に思いをはせる市民手作りの「火のまつり」での灯りを作りました。
地域にある「水俣病センター相思社」とは、職員の皆さんと近所付き合いをしたり、書籍や写真集を購入したりする中で、水俣病に関する情報を得てきました。
同じ家庭や地域の中で、水俣病の申請をした人、しなかった人、闘った人、そうでない人、さまざまだとは思いますが、水俣病の運動のためにこぶしを振り上げなかった人たちでも、何かしら、水俣病に巻き込まれてきたと思います。
さて、1995年、そして2009年、国は水俣病の全面解決を目指して、水俣の住民、不知火海周辺住民、全国に散らばっている出身者に対して、水俣病の政治解決を図り、また、「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」を制定して、広く被害者救済を行いました。
この施策によって、合わせて65,000人の方たちが救済されました。
この対応に感謝している住民も少なくないと思います。
しかし一方で、現在も救済されず、苦しんでいる方が多くおられます。
水俣病の裁判はつづき、認定申請をする人たちも相次いでいる現状があります。
最後に言いたいこととして、本日の慰霊式にお忙しい中、ご参列いただいている伊藤環境大臣、就任されたばかりの木村熊本県知事、木庭チッソ株式会社代表取締役社長には、患者の現状に真摯に向き合い、全面解決をいただくことを切に望みます。
水俣病による混乱状態が、一日も早く終わることを願っています。
水俣病で亡くなった多くの命を決して無駄にしないように、もう二度と公害病を起こさないようにと願っています。
犠牲になられた全ての命に追悼の意を表します。どうぞ安らかにお眠りください。
令和6年5月1日
患者・遺族代表 川畑 俊夫
水俣児童・生徒代表「祈りの言葉」
昨年度、私たちが通う湯出小学校は、創立150周年を迎えました。創立150周年を迎えるにあたって、湯出小学校で復活したものがあります。それは、今まであまり歌われてこなかった、校歌の3番目の歌詞です。復活した3番の歌詞は「みどりにたぎる 大滝の水」という言葉から始まります。新たに学校に設置された大きな歌詞ボ
ードを見て私は、150年も前から、自然豊かな湯出の地で、豊かな山から流れ出した栄養豊富できれいな水があったことを感じました。
山から流れ出した水は、栄養をたっぷりふくみながら水俣の海に注ぎ込まれ、豊かな海をつくっていきました。
そのようなきれいな水、きれいな海をもつ水俣で、水俣病が発生し、人間をふくむ、多くの生き物の命が失われたことは、とても悲しい出来事だと思います。
私たちはこの水俣で、たくさんの先生方、地域の方々、患者さん方と交流するなかで、水俣病の原因や症状に関すること、患者さんの苦しみや想いをたくさん学ぶことができました。そして、昨年度は「水俣に学ぶ肥後っ子教室」で、限りある水を大切にすること、水俣病だけではなく、身の回りの差別や偏見を絶対に許してはいけないことを学びました。
私が一番心に残っていることは、語り部である滝下昌文さんのお話です。自分のことを差別してきた人たちに対して、悔しい思いをしながらも立ち向かい、精一杯生きてこられた滝下さんのお話を聞き、その生き方がとてもかっこいいと思い、自分も滝下さんのような大人になりたいと思いました。
また、水俣病が奪ったものは、水俣の自然や様々な生き物の命だけではないことを改めて知りました。人々の絆まで奪ってしまった水俣病のような出来事を、もう2度と起こしていけないと強く感じました。
しかし、水俣病の公式確認から68年たった今でも、新聞記事やニ
ュース等で「水俣病」という言葉を見ます。また、「サステナブル」や「SDGs」という言葉がたくさん世の中で使われるようになり、持続可能な社会に向けて解決しなければならない環境問題は、未だに日本に、そして世界にたくさん存在しています。
そのような中で、私たちにできることは何でしょうか。湯出小学校では、身近な環境を守るために、学校版環境ISOに取り組んでいます。「使わない時は電気を消すこと」「ごみの分別、減量をすること」など、当たり前のことを学校や家庭でこれからも続けていくことが大切だと考えます。
また、差別や偏見を許さず、みんなが笑顔で学校に来ることができるように、毎年湯出っ子人権宣言をみんなで立てています。
昨年度は
「みんなが 楽しく 明るい笑顔になることを します。」
「自分の思いも 相手の思いも 大事にしながら やさしく伝え合います。」
「一人で なやまないで みんなで 助け合います。」
の3つを考え、みんなで笑顔の湯出小学校をつくってきました。
今年度はもっとみんなが笑顔で、もっと明るく楽しい湯出小学校になるように、自分も友達も大切にして、みんなで協力していきたいと思います。
最後になりますが、私は野球の試合で、ここエコパーク水俣をよく訪れます。海の匂いや木々の香りがする自然豊かなこの場所が、そしてこの水俣の地が大好きです。
この故郷水俣をこれからも守り、よりよい明日をつくっていくこと。ここ水俣から環境保全と笑顔の輪を広げていくことを誓い、祈りの言葉といたします。
令和6年5月1日
水俣市立湯出小学校 児童代表 野中 隼一朗
環境大臣「祈りの言葉」
水俣病によって、かけがえのない命を失われた方々に対し、心から哀悼の意を表します。
また、大変な苦しみの中でお亡くなりになられた方々や、その御遺族、そして健康被害や地域に生じた軋轢などに苦しまれてきた皆様に対し、誠に申し訳ない気持ちです。
政府を代表して、水俣病の拡大を防げなかったことを、改めて衷心よりお詫び申し上げます。
水俣病犠牲者慰霊式は、令和2年度から令和4年度までの3年間、新型コロナウイルス感染症の影響を受けて中止になったり規模を縮小して開催されたりしましたが、今年度は、昨年度に引き続き、こうして無事開催に至り、私自身も環境大臣としてこの場に参列させていただくことができたことを、大変感慨深く思っております。
実行委員会の皆様をはじめ、開催に向けて準備を進めてこられた地元の関係者の皆様の御努力に感謝申し上げます。
私は、環境大臣就任以来、一人ひとりの取組が地域、日本、地球の未来につながるという「同心円」の考え方に立って環境行政を進めています。そして、こうして水俣病発生の地に立たせていただくと、ここで海が汚染されて甚大な被害が生じ、地域社会に不幸な亀裂がもたらされた歴史に思いを致すとともに、多くの方々の御努力によってこの美しく豊かな環境が取り戻されたことを肌で感じることができ、水俣の地から私たち一人ひとりがどう行動していくかを問いかけられているように感じます。その意味で、ここ水俣は同心円の考え方に基づく環境行政の原点と言える場所であり、環境大臣としてその役割の重さを改めて感じております。
環境省では、これまで、多くの方々の御協力を得ながら、公害健康被害補償法や2度にわたる政治救済などを通じて水俣病に関する補償や救済に努めるとともに、胎児性・小児性患者をはじめとする方々の日々の生活の支援や、地域社会の絆を取り戻すいわゆる「もやい直し」に全力で取り組んでまいりました。
2年後の2026年には、1956年の水俣病公式確認から70年を迎えます。私たち
一人一人が水俣病と向き合い、国の内外の多くの方々に水俣病の歴史と今の美しい自然を取り戻した水俣の姿に関心を持っていただくため、地域の皆様の声に耳を傾け、関係自治体や地元企業、地域づくりに尽力されている多くの皆様とも協力しながら、この節目の年に向けた歩みを進めてまいりたいと考えています。
水俣病の被害を受けた方々やその御家族の方々なども少しずつ年を重ねられ、皆様の生活を取り巻く状況は日々変化していると承知しています。皆様が地域で明るく安心して暮らしていくことができるよう、関係自治体や地域で日々努力されている医療・福祉関係の皆様などとも協力しながら、引き続き医療・福祉の充実に努めていきたいと考えています。
海外に目を向ければ、2013年に、ここ水俣市で「水銀に関する水俣条約」が採択されて以降、国際社会が一丸となって水銀対策に取り組むため、148に及ぶ国と地域がこの条約を締結し、各国で水銀対策が進められてきました。我が国は、世界で悲惨な公害が繰り返されることがないよう、国際機関とも連携しつつ、数多くの二国間・多国間協力事業を行い、積極的に世界の水銀対策に取り組んでいます。
引き続き、水俣病の経験と教訓を世界に発信し、国際社会の中で先頭に立って、水銀による環境汚染や健康被害のない世界の実現に向けて取り組んでまいります。
水俣には、水俣の地に誇りを持ち、地域の発展と安心を目指して、様々な形で日々努力されている方が多くいらっしゃいます。また、水俣には、こんなにも美しく豊かな自然と文化が残っています。
そうした地域の皆様の想いや豊かな環境を将来世代にしっかりと引き継いでいくためにも、一人ひとりの行動が地域や国、地球につながっているという「同心円」の考え方に基づいて、持続可能で安心して暮らしていける社会の実現を目指して、全力で取組を進めていくことを誓います。
結びに、改めて、水俣病の犠牲となりお亡くなりになられた方々の御冥福をお祈りし、私の「祈りの言葉」とさせていただきます。
令和6年5月1日
環境大臣 伊藤 信太郎
水俣病犠牲者慰霊式に当たり、水俣病の犠牲となり、尊い命を失われた方々の御霊に対し、全ての熊本県民とともに、謹んで哀悼の意を表します。
今日は、水俣病の公式確認から68回目となる5月1日です。
水俣病の被害に遭われた方々、そして水俣病でかけがえのない御家族を亡くされた方々は、癒えることのない苦しみや悲しみとともに、この長い月日を歩んでこられました。
水俣病の被害拡大を防ぐことができなかった熊本県の責任を重く受け止め、熊本県を代表する知事として、ここに心からお詫びを申し上げます。
水俣病は、公式確認から公害病と認定されるまでに、12年もの月日がかかってしまいました。
この間、「魚湧く海」と呼ばれた海の汚染が進み、多くの命と健康が損なわれ、地域には深い分断が生じてしまいました。水俣病が確認された当初に、県民の命と健康を守ることを最優先に、迅速にあらゆる対応ができてなかったことは痛恨の極みであり、大いに反省すべきことであります。
私たちは、初期対応の重要性、正しい情報に基づき行動することの大切さなど、多くの貴重な教訓を水俣病から学んでいます。
これらの教訓を常に心に留めながら、知事として県政の様々な課題に向かい合っていくことをここにお誓い申し上げます。
例えば、現在、県民の皆様が高い関心をお持ちの半導体関連企業の集積に伴う地下水や排水の課題につきましても、水俣病の教訓をしっかりと踏まえ取り組んで参ります。
具体的には、企業に地下水の取水量の10割の涵養を義務付けるほか、法令等による規制外の物質もモニタリングの対象に加えるなど、新たな取組みを実施しています。
水俣病から学んだ貴重な教訓を、世界中に、そして若い世代に発信していくことも、熊本県に課された大きな役割です。
本県では、県内すべての小学5年生が水俣市を訪れ、水俣病や環境問題について学ぶ「水俣に学ぶ肥後っ子教室」を続けており、今年で23年目を迎えています。肥後っ子教室で水俣病を学んだ子ども達が小学校の先生となり、自らの経験を生かしながら、子ども達に水俣病や環境の大切さを教える
など、世代を超えた学びの継続も生まれています。
水俣病の悲劇を繰り返さないため、水俣病の語り部の方々をはじめ関係者の皆様の御協力をいただきながら、引き続き、水俣病の歴史と教訓の継承を進めて参ります。
胎児性・小児性患者の方々は、お生まれになった時から、
長きにわたり、水俣病による痛みや苦しみとともに生きてこられました。
そのような中にあっても、御家族や支援者の皆様に支えられながら、誇りを失わずまっすぐに自分の人生を生き抜いておられるお姿に、私は強い感銘を受けて参りました。
しかしながら、御自身も御家族も御高齢となられ、「これからの生活に不安を抱いている」という切実なお声もお聞きしています。
そのようなお声を受け、皆様に安心してお過ごしいただくために、熊本県ではケアホームの整備や在宅支援サービスの充実に取り組んできました。
今後も、御本人や御家族の思いを丁寧にお聞きしながら、国や市・町、地元関係者の方々とともに、胎児性・小児性水俣病患者の方々の日常生活をしっかりと支えて参ります。
公健法に基づく認定審査については、平成25年の最高裁判決を最大限尊重し、申請者それぞれの事情にひとつひとつ丁寧に対応しながら、着実に進めて参ります。
併せて、地域の再生と振興についても、第七次水俣・芦北地域振興計画に基づき、国や市・町、地元関係者の皆様とともに、しっかりと取組みを進めて参ります。
私は、副知事就任以来、毎年5月1日にこの地を訪れ、慰霊碑に祈りを捧げて参りました。
そして本日、熊本県知事として初めてこの場所に立ち、改めてこの海で起きたことに思いをいたしました。
知事として、水俣病の拡大を防げなかったことへの反省に基づき、県民の命と健康を守る責任の重さを強く心に刻み、県民の皆様のために力の限りを尽くしていくことを、ここにお誓い申し上げます。
結びに当たり、改めて水俣病犠牲者の方々の御冥福を心からお祈り申し上げ、私の「祈りの言葉」といたします。
本日、ここに、水俣病犠牲者慰霊式が執り行われるにあたり、謹んでお亡くなりになられました方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、ご遺族の皆様方に対しまして心より哀悼の意を表します。
当社は、ここ水俣の地で創業し、以来この地を基盤とした事業活動を続け、水俣市をはじめ、周辺市町村の皆様のご支援をいただきながら、地域と共に歩み、今年で1 1 6年を迎えることが出来ました、
しかし、この間、当社の工場廃水に起因する水俣病を惹き起こし、多くの方々が犠牲になられましたこと、また地域の皆様に多大なご迷惑をおかけしましたことは、痛恨の極みであり、ここに衷心よりお詫び申し上げます。
当社は、患者の皆様に対する補償責任の完遂を経営の至上命題に掲げ、必死の努力を重ねてまいりました。そして、この補償責任を果たしていく決意は、今後も決して変わることなく継続してまいる所存です。
世界中で猛威を振るった新型コロナウイルス感染症は収束を見たものの、未だに各方面でその影響がくすぶり続けています。加えて世界各地では幾つもの紛争が勃発しかつ長期化しており地政学リスクも高まっています。これらの影響は中国および欧州などの景気減速に繋がり、世界的な経済の混迷をより一層深める要因となっています。
このような厳しい環境下ではありますが、当社グループにおきましては、収益回復に向けた事業構造改革に取り組むと同時に、水俣病の反省に立ち、常に環境、安全に配慮したものづくりに努め、豊かで健康的な生活と持続可能な社会の実現に貢献すべく各種の事業活動を精力的に進めております。
中でも、最重要拠点である水俣製造所では、再生可能エネルギーである水力発電の有効活用によるカーボンニュートラルヘの取り組み推進や、ライフケミカル製品を始めとした人の健康を担う製品の開発および安定供給に努めることにより、社会的課題の解決に向け積極的に取り組んでおります。
これらの取り組みを通じ、安定かつ持続的な経営基盤の確立に努め、患者の皆様に対する補償責任の完遂と地域社会の発展に貢献してまいります。
そして患者の皆様が安心して暮らしていただけるよう、関係自治体が検討される必要な施策に対しましても協力してまいる所存です。
これらのことが犠牲となられた方々の鎮魂のため、また、国、県、関係各位並びに地域の皆様からのご支援にお応えするための当社の責務であり、これからもより一層の経営努力を重ねてまいりますことをここにお誓いし、祈りの言葉といたします。
令和6年5月1日
チッソ株式会社 代表取締役社長 木庭 竜一