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みなまたの伝説「恋路島物語」

 
 

 この物語は、当時九州制覇を目論んでいた肥前の竜造寺隆信が、天正12年(1585) 3月、島原の有馬義純を攻めた時、有馬義純の依頼で援軍として出陣した薩摩の島津軍の若き武将にまつわる物語である。
 竜造寺隆信から攻められた有馬義純は、朋友関係にあった薩摩の島津義久に助けを求めた。島津義久はこれに呼応して末弟の家久を大将に3000余騎の勇猛な薩摩兵児を島原に送ることにしたが、その中に川上左京亮忠堅(かわかみさきょうのすけただたか)と言う若い武将がいた。
 3000余騎の島津軍は、当時薩摩領であった水俣に兵を結集し、袋湾に軍船を揃え出陣した。
 若手の武将川上左京は二十七歳で、新婚の新妻は他の人達と共に出陣兵士の武運を祈って袋湾まで彼を追い別れを惜しんだ。この時、袋の村人達は棒踊りを踊って歓送したと言い、袋の棒踊りはここから始まったと言われている。
 左京の妻は、岸を離れ次第に沖に霞んで行く軍船を恥じらいながら人陰から見送っていたが、夫を恋うる心を抑え切れず、遂に小舟を雇って水俣湾に浮かぶ小島(恋路島) に渡り、石室に籠り、海辺に石を積み上げて、夫の武運を神仏に祈り続けた。しかし、この強い恋慕の思いを募らせたまま、夫の帰りを待たずして哀れにも一人淋しく島でこの世を去ったと言う。
 一方島原に渡った島津家久の率いる3000余の兵は、沼を前にした丘の上に陣取って戦いに臨んだ。
 これに対峙した竜造寺隆信の1万3000の大軍は3月24日を期して島津軍を一挙に殲滅せんとばかりに押し寄せて来た。家久は策をめぐらし、丘の上に小数の鉄砲隊と弓隊を伏せさせ、本隊はにわかに退却する様に見せかけた。これを見守っていた隆信は、自分が率いる1万3000の大軍に、島津軍が怖れをなして崩れ出したと思い込み、一気に押しつぶそうと追って来た。この時、島津軍が一斉に銃を射ちかけ、矢を放ったため竜造寺軍は、ばたばたと倒れ、そこに島津軍の本隊が切り込み騒然となった。
 この騒ぎを見た隆信は、味方同志が小競り合いを起こしたと勘違いして「隆信ここにあり、静まれ、静まれ」と大音声で叫んで立ち上った。
 その時、敵の総大将竜造寺隆信を求めて敵中深く切り込んでいた川上左京は、この声を聞いて隆信のそばに駆け寄り、「御免」と言うなり隆信の首を打ち落とした。
 「隆信討ちたり」の声は敵、味方の全軍に伝わり、遂に竜造寺軍は惨敗し、島津氏の勢いは全九州に及ぶ程になった。
 敵の総大将竜造寺隆信の首を討ち取り、最高の武勲を立てた左京は、一時も早く、待っている最愛の妻のもとにこの悦びを伝えようと帰って来たが、待っているはずの妻は左京の帰りを待たず、既にこの世を去っていた。左京は、妻が小島で一人吾が名を呼び続けて逝ったと言う悲報をきき、直ぐにその島に渡り、夫を恋うる一念で築いたという石積みを抱きしめ、今は無き妻を恋い慕いながらその名を呼んで泣いたという。
 その石が恋路島の西端にある妻恋岩として名残を留めており、恋の浦の波音が今もなお過ぎし日の美しいロマンを語り続けているようである。   

 

川上忠堅(かわかみただたか):戦国時代から安土桃山時代にかけての島津軍の有力武将のひとり。官位、左京亮(さきょうのすけ)。

水俣市史「民族・人物編」より


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更新日:2015/7/29