水俣市トップへ

みなまたの伝説「龍王物語」

最終更新日:

 今から昔に遡ること四〇〇年余りの天正の半ば、水俣を含む芦北、八代地方は人吉藩相良家の領域であったが、天正九年二月、島津義久の進攻を支えきれず、ときの藩主相良義陽公は島津の軍門に降り、人吉藩の芦北支配はこのときをもって終わった。義陽公には、頼貞という腹違いの弟があったが事々に意見が合わず、薩摩と内通しているという疑いから八代の古麓城に幽閉されていたが、義陽公の戦死を知ると再び謀反を企て、後離を恐れた家臣団によって自害させられてしまった。頼貞の一子龍王は、当時十三歳であったが武勇に優れ、一家再興の念抑え難く、ある嵐の夜、城を脱出し白馬を駆って水俣に辿り着き南福寺の龍山に隠れ住んだ。それから龍王は、ここを仮の宿として日々の糧を得ながら母の故郷(一説には高尾野ともいう)への思慕とお家再興の念に燃えていた。
 ある日、農家の下男が龍山々麓に草払いに来た。ひと仕事ののち谷川の水で喉を潤し、一服しながら見るとはなしに小川のせせらぎを見ていると、それまで澄んでいた水が薄く白く濁ってきた。「どうしてだろう」と不思議に思いながらなおも見つめていると、一尺足らずの細い木の枝が二本、間隔をおいて流れてきた。木の枝は半分が皮をむかれて白くなっている。「箸だ」、下男は思った。「さっき水が白く濁ったのは米を磨いだ汁だったのだ、この上に人が住んでいる」。下男はこの山中に住む人が誰なのか、すぐ下に村里があるのにどうしてだろうと思うと、その人を見てみたい衝動に駆られた。下男は繁った雑木や草を払いながら谷川沿いに登り始めた。四町も登っただろうか、木陰に白いものの動くのを見た。馬も下男の気配を感じたのか一声高く嘶いて後足で棒立ちになった。龍土は「何事か」と洞窟の中からとびだしてきて、洞窟の入口にたたずむ下男に驚いた。しかし直感的に相手が武士でないことを見てとった龍王は、いささか安心した様子で、「私は子細あってここに住んでいるので、このことは絶対他言しないように」と頼み、約束の証にと腰刀を与えた。
 家に帰った下男は、貰ってきた腰刀を誰にも気付かれないように、自分の身回り品のなかに隠したが、これまで見たこともない立派な作りの腰刀が気になって仕方なく、主人や奉公人たちの目を盗んでは腰刀を取り出して見惚れていた。隠しごとはいつまでも続くものではない。下男がときどき姿が見えなくなることに気付いた主人は、ある日下男を使いに出し、その留守に下男の身の回り品を調べてみた。そこには主人がこれまで見たこともない立派な腰刀が隠されていた。主人は「これは徒ならぬことだ」と感じ、帰ってきた下男を問い詰めた。初め「死んでも言えない」と言っていた下男も、主人の執拗な折檻についに事の総てを白状してしまった。
 「龍王発見」の報は直ちに城代に達し、地士深水郷右衛門の率いる一団は龍山々中に踏み込んだ、如何に武勇に優れた龍王といえども、未だ十三歳の身で多勢に無勢、抗する術もなく無念にも愛馬もろとも討ち取られてしまった。ところが、それからのち、そぼ降る雨の夜には、龍山の漆黒の空を白馬に乗って天駆ける怒りに狂う龍王の姿が見られるようになり、深水郷右衛門の家には次々と不幸が続いたので、郷右衛門は心尽くしの祠を建てて龍王の霊を弔ったという。もともと龍山は「立山」であったが、里人たちがあまりの恐ろしさに「龍山」と呼ぶようになったということである。

 

水俣市史「民族・人物編」より


このページに関する
お問い合わせは
(ID:868)
水俣市役所
〒867-8555  熊本県水俣市陣内一丁目1番1号   電話番号:0966-63-11110966-63-1111   Fax:0966-62-0611  

[開庁時間] 午前8時30分~午後5時15分(土・日・祝日・年末年始を除く)

(法人番号 7000020432059)
Copyright (C) 2019 Minamata City. All Rights Reserved.