久木野寒川の集落がまだ独立した小村で、家数が四軒しかなかった江戸時代末期のころ、この村に弥九郎という人が住んでいた。この人は大へんな変わり者で、「どうせ明日も、がまだせば汗ん出て汚るっとじゃっで…」と絶対に風呂には入らない男であった。
弥九郎にはセンという見るからに健康にはち切れんばかりの娘がいた。山深い百姓の家に生まれ育ち、小さいころから家の暮らしを助け、働きづくめで若者などとの語らいなどに恵まれない環境にあって、当時三十八歳になってまだ独身であった。ある日のこと、薩摩川内から来たという山伏がこの寒川村を訪れた。昔は修行のため山野に野宿して村人を行乞しながら渡り歩く修験僧や修験者がいた。おそらくこの山伏もその類の者であったろう。
古代か絶ゆことなく湧き出る水源に恵まれた寒川村は、修験者によっては格好の地であったのである。
山伏はしばらく滞在しているうちに狭い村のこと、山伏とセンは知り合う機会に恵まれた。このとき山伏は四十四歳の分別のある男勝りであったが、センを一目見たときから熱烈な恋心を抱くようになった。
“遠くて近きは男女の仲” そのうちに山伏の情熱にほだされたのか、センも山伏をほのかに恋い慕うようになった。密かに逢瀬を重ねるうちに二人の仲はますます燃え盛っていった。狭い山村のこと、噂は村中に広がり、もう黙っていては逢瀬をつづけられなくなり、山伏はこの恋の成就のために、思い切って父親弥九郎に娘センとの結婚を申し出した。しかし変わり者の父親は「何処ん馬ん骨かわからんヤンボシに、娘は絶対やらん!!」と剣もほろろに拒絶した。その後も何回となく頼みに行ったが全く受け付けず、後ではセンにも逢うことを禁じ、家の者にまで「山伏が来ても絶対家に入れちゃならん!!」と厳しく申し付けて絶対に寄せつけなかった。
逢うことすら禁ぜられた山伏はどうしようもない心情にかられたが、遂にセンとの結婚を断念して、センの家の川向うの山中にある大石に、センとの別れの言葉を刻みつけて、やがて寒川村から姿を消してしまった。
悲しんだセンは、悲恋に終わった山伏が惜別の言葉を刻んだ大石に毎日逢いに行き、その石を撫でながら一生を独身で通したという。
そのことを知った村人はこの石を「涙の別れ石」と呼ぶようになったという。
明治二十八年三月、寒川儀三という人が、この石に刻まれた文章を書き残している。判読すれば次のようだ。
「比の石に○し者にわ○○○○○○○○○○と○り○○あゝなさけない川○○川の流れ○○○雨風しのんで○○○センよ先の世で出合ってよい花をさかせよ也」
明治二十八年三月吉日 寒川儀三( 現、古里内匠頭氏の祖父)
水俣市史「民族・人物編」より